【選挙をするだけで国家予算が動く国、日本】なぜ民主主義はこんなにお金がかかるのか

選挙は「民主主義の祭り」とよく言われますが、実際には屋台も花火もない代わりに、国家予算が静かに燃えていく、かなり高額なイベントでもあります。

2026年衆議院選挙では、国が負担する選挙運営費だけで約855億円
前回2024年より約39億円増え、物価高と人件費上昇の波は、ついに投票所にも到達しました。

「投票用紙と鉛筆でしょ?」と思った方、ここからが本題です。


国が選挙に使うお金はいくら?実は“静かに高額”な民主主義コスト

2026年衆院選で国が負担する選挙運営費は、報道ベースで約855億円(850億円超とも)とされています。

このお金は、候補者のポスターや街頭演説ではなく、あくまで「選挙を成立させるための最低限の土台」に使われます。

投票所・開票所の設営、投票用紙や選挙公報の印刷、選挙管理委員会の事務費、開票作業の人件費。
そして意外と高いのが、全国に設置されるポスター掲示板だけで約48億円規模という点です。

48億円と聞くと地方自治体の大型事業並みですが、これが「選挙のたびに、ほぼ新品で用意される」のだから驚きます。

民主主義は無料ではない、という言葉がここで一気に現実味を帯びます。


候補者が払う選挙費用、その多くは「法律で決まっている」

一方で、「政治家は金を使いすぎだ」という批判も根強くあります。
ただし日本の選挙では、選挙運動費には厳格な上限が設けられています。

衆院選では、候補者1人あたり約2000万円規模が一般的とされ、
ポスター、ビラ、街宣車、スタッフ人件費、広告費などがここに含まれます。

ポイントは「使いたくて使っている」というより、「使わなければ成立しない支出」が大半だという点です。
ポスターを貼らなければ違反、ビラの枚数も細かく規定、街宣車の音量や時間まで法律管理。

自由に見えて、実はかなり不自由。
選挙とは、法律に縛られた高コストな公開作業でもあります。


なぜポスターも街宣も“昭和仕様”が残っているのか

「もうネットでいいじゃないか」という声は毎回上がります。
それでもポスターと街宣が消えない理由は、単純でシビアです。

一番投票に行く世代は、一番ネットを使わない世代だからです。

高齢層は今も選挙の主要プレイヤーであり、
その世代に届く手段が、ポスター、名前連呼、街頭演説という、ある意味で完成された昭和モデル。

効率は悪い、コスパも悪い、でも確実。
選挙が変われない理由は、候補者の怠慢より、有権者構造の現実にあります。


お金がないと選挙に勝てない?答えは「半分YES、半分NO」

よく聞く疑問です。
「結局、金がないと勝てないんでしょ?」

答えは、半分YESで、半分NO。

知名度ゼロの新人が、資金もゼロなら、存在に気づかれず終わる可能性が高い。
一方、知名度がある候補なら、最低限の費用でも十分戦えます。

つまり問題は「お金の量」ではなく、スタート地点の差
お金はブースターであって、エンジンではありませんが、エンジンが弱い人ほどブースターが必要になります。


「政治と金」がなくならない本当の理由は“選挙前後”にある

多くの人が見落としがちなのは、選挙はゴールではないという点です。

当選後も、政治家は活動を続けます。
秘書の給与、事務所維持費、移動費、資料作成。

これらは「政治活動費」として、常に発生し続けます。
選挙だけクリーンにしても、その後の運営費が人任せ・自己申告ベースである限り、金の問題は消えません。

選挙は入口であって、出口ではない。
この構造が、政治とお金を切り離せなくしています。


お金儲け目的の政治家は本当に多いのか?

では、政治家は本当に金儲け目的なのか。
ここで一度、年収だけを冷静に見ると、割に合わない仕事であることは明らかです。

それでも人が集まる理由は、お金ではなく、権力・影響力・人脈
これらは数字に換算できませんが、極めて強力なリターンです。

問題は「金を得ること」より、「金を得る過程が見えないこと」。
不透明さこそが不信を生みます。


理想論としての「清貧政治家」は成立するのか

「清貧な政治家であってほしい」という願いは、間違っていません。
ただし、それを個人の覚悟に丸投げする制度は、すでに限界に来ています。

必要なのは、無収入の英雄ではなく、
収入と支出が説明され、納得できる政治家です。

民主主義にお金はかかります。
だからこそ、その使い道を見続けることが、有権者にできる唯一の参加でもあります。

選挙は一日で終わりますが、
政治とお金の関係は、その翌日からが本番です。