2022年に日本を震撼させた「安倍晋三銃撃事件」。
その初公判が始まり、被告・山上徹也が語る“動機”と“背景”に再び注目が集まっています。
母親が旧統一教会(現・世界平和統一家庭連合)に傾倒し、家庭が崩壊した――。
「宗教2世」としての苦悩を語る一方で、検察は計画性を強調。
「恨み」は個人の問題なのか、それとも社会の構造なのか。
ネット上では“英雄視”と“断罪”が交錯し、政治と宗教の関係も再び問われています。
この記事では、初公判で見えた真実から、宗教・社会・世論の深層までを追い、
「誰が裁かれるべきなのか」という本質的な問いを掘り下げます。
初公判で明らかになった“真実”と“ズレ”
2025年、あの「安倍晋三銃撃事件」の初公判がついに始まった。
日本中が注目したのは、「なぜ撃ったのか」という動機の部分だ。
しかし、法廷で焦点になるのは「何が罪なのか」。
視点が少し違う。
検察は“行為”を裁く。一方、世論は“背景”を裁く。
そこにズレがある。
ニュースで聞こえる「計画性」や「危険性」という言葉の裏で、
私たちはどこか「人間ドラマ」を求めてしまっているのかもしれない。
家庭崩壊と旧統一教会――「宗教2世」の現実
被告・山上徹也は、母親が旧統一教会(現・世界平和統一家庭連合)にのめり込み、家庭が崩壊したと語っている。
母親は高額献金を繰り返し、家計は破綻。
本人は「信仰」という名のもとに失われた日常を、静かに恨んでいた。
文部科学省が2023年に行った調査では、宗教2世のうち72.5%が「信仰による苦痛を感じた経験がある」と回答している。
おそらく、これほど高い数字を見たら統計担当者もため息をつくレベルだ。
それだけ「宗教と家族のあいだ」に見えない壁がある。
余談だが、「お布施貧乏」という言葉が再び注目されている。
昭和世代には懐かしく、令和の若者には新鮮。
宗教は“信仰心”と“経済力”のバランスで、いつの時代も揉めるようだ。
「恨み」は個人か、構造か?──検察と弁護の攻防
検察は「周到な準備を重ねた計画的犯行」と主張する。
弁護側は「宗教被害という社会的背景があった」と反論。
この構図、まるでドラマの脚本のようだ。
しかし法廷は脚本ではない。どちらかが“正義”で、どちらかが“悪”とは限らない。
SNS上では、「社会の犠牲者だ」という声と「言い訳に過ぎない」という声が真っ二つに割れている。
どちらも一理あるからこそ、議論が終わらない。
“正義の定義”は、いつも誰かの立場によって変わる。
ネット世論が変えた“山上像”――英雄か、犯罪者か
事件直後、SNSには「山上に同情する」「彼の言葉を聞きたい」といった投稿が殺到した。
2022年7月当日だけで、X(旧Twitter)では関連投稿が約1,000万件以上。
「#山上徹也」「#統一教会」などのタグがトレンドを埋め尽くした。
ネット民の一部は「彼は日本社会の歪みを代弁した」とまで言った。
しかし同時に、「暴力を正当化するな」という反発も多かった。
この“山上像の分裂”は、まさに現代日本の鏡だ。
情報があふれる時代、誰もが評論家になれる。
ただし、クリック一つで“英雄”が“悪人”にもなる。
現代社会における「評判の変動速度」は、もはやビットコイン並みである。
旧統一教会と政治の“切っても切れない”関係
事件後、多くの政治家が「旧統一教会との関係」を問われた。
選挙支援、祝電、イベント出席――いわゆる“癒着リスト”がSNSに出回った。
中には「こんな人まで?」と驚く顔ぶれも。
政治と宗教。どちらも“信じる力”で動く組織だ。
だからこそ線引きが難しい。
皮肉なことに、安倍元首相は“信仰の象徴”ではなく、“政治的象徴”として狙われた。
余談だが、平成生まれの若者に「霊感商法って知ってる?」と聞くと、
「なんかファンタジー系のスキル?」と返ってくることがある。
時代のギャップとは、こういうところに現れる。
被告の罪と社会の責任――問われているのは「誰」か?
山上被告は銃を自作し、元首相を銃撃した。
罪は明白だ。
しかし、弁護側が問うのは「なぜそこまで追い込まれたのか」。
社会学者・古市憲寿氏は事件当時、「彼一人の問題ではなく、現代日本の構造的貧困の象徴」と評した。
確かに、家族が宗教で破産し、就職もままならず、孤独を抱えた青年は少なくない。
“山上化”を防ぐには、裁判ではなく“社会のリハビリ”が必要かもしれない。
事件が残した問い――「信じる」と「裁く」のあいだで
結局、私たちは何を信じ、何を裁くべきなのか。
宗教を信じた母。
信じられなくなった息子。
信頼を失った政治。
三つの「信」が壊れたとき、事件は起きた。
裁判がどんな判決を下しても、
この事件が私たちに残した問いは、まだ終わっていない。
カフェで友人と話すとき、こんな会話になるかもしれない。
「結局、“信じる”ってコスパ悪いのかもね」
――でも、それを失った社会のほうが、もっと寂しい。
いよいよ安倍晋三銃撃事件の初公判が始まりますね。
当時の衝撃はいまでも忘れられません。
まさか日本で、しかも元首相が銃撃されるなんて――まるで外国のニュースのようでした。
そして浮かび上がったのが「旧統一教会」という名前。
正直、それまで深く意識したこともありませんでしたが、事件をきっかけに調べるほど、その組織の影響力と複雑な背景に驚かされました。
宗教、政治、そして個人の悲劇が交差するこの事件。
いま改めて日本社会の“見えなかった構図”が問われている気がします。今後の裁判の行方にも注目していきたいと思います。

