石破茂とは何者だったのか。本記事では、鳥取で育った少年時代と県知事の父のもとで培われた原点から、慶應義塾大学卒業後に三井銀行へ進んだ異色の経歴までをたどります。
さらに、政策オタクと呼ばれた理由や、防衛・農政・地方創生での実績、なぜ総裁選で勝てなかったのかという永田町のリアルをデータとともに整理します。
そして2024年の首相就任、第102代・103代総理としての歩み、「石破ショック」とアジア外交の評価、退陣の決断とその後までを、経歴・政策・退陣理由の観点から体系的に深掘りします。
鳥取で育った少年――県知事の父と“政治の空気”
石破茂は1957年、東京に生まれましたが、本当の意味で人格が形づくられた場所は父の地盤である鳥取県であり、家庭の中には常に政治の会話が飛び交い、父で元鳥取県知事の石破二朗の背中を見ながら育った少年にとって、政治は特別な職業というよりも日常の延長線上にある“空気”のような存在でした。
祖父も内務官僚出身の政治家という家系にあって、周囲からは将来を期待されながらも、本人は鉄道模型に夢中になる理系気質の少年であり、作文に「偉人になりたい」と書きつつも内心では「自分には無理だ」と距離を置こうとしていたというエピソードは、後の“自己否定型リーダー”像を象徴しています。
地方都市で育った体験は、後年の地方創生論や「中央と地方の格差」問題への強い問題意識につながり、都市の論理だけでは測れない感覚を持ち続けたことが、永田町で異質と呼ばれる理由の一つにもなりました。
慶應から三井銀行へ――政治を避けたエリート青年
慶應義塾大学法学部を卒業後、三井銀行へ就職した石破氏は、世襲議員の王道とは異なる安定志向の道を選び、「父の七光り」と言われない人生を模索していました。
銀行員時代に培った財務諸表を読み解く力やリスク感覚は、後年の経済政策議論で“数字で語る政治家”と評される基礎となり、感情論よりもデータを重視する姿勢はこの頃に形成されたと考えられます。
しかし1981年に父が急逝し、地盤の後継問題が現実味を帯びると、鳥取に戻るかどうかの葛藤が始まり、ここで登場するのが地元の大物政治家であった田中角栄の「君がやらなきゃ誰がやる」という一言でした。
この言葉はドラマの台詞のようですが、実際に多くの関係者が証言しており、29歳で初当選という決断の背中を押した瞬間であり、ここから“政策オタク”と呼ばれる政治家の長い旅が始まります。
政策オタクと呼ばれた理由――防衛・農政・地方創生の実績
安全保障分野では防衛庁長官、防衛大臣を歴任し、自衛隊の装備や運用に関する専門知識は官僚顔負けと評され、記者会見で専門用語が飛び交う様子は「説明が長い」と揶揄されつつも支持者からは「誠実」と受け止められてきました。
農政や地方創生にも深く関与し、人口減少社会における地方経済の持続可能性を論じる際には具体的な統計を提示しながら議論を進めるため、討論番組では相手が準備不足だと一方的になることもしばしばで、ここに好悪が分かれる理由があります。
永田町で派閥の論理より政策論を優先する姿勢は、味方を増やすよりも“理解者を選ぶ”政治スタイルを生み、これが後の総裁選での苦戦につながる伏線にもなりました。
なぜ総裁選で勝てなかったのか?永田町のリアル
石破氏は世論調査では常に上位に位置し、地方党員票では優勢と報じられることが多かった一方で、国会議員票が伸び悩むという現象を繰り返しました。
自民党総裁選は党員票と議員票の合算で決まる仕組みであり、派閥の支援や根回しが大きく影響するため、“正論型”の石破氏は議員間の距離感を縮めきれなかったと分析されています。
政治は理念と同時に組織戦でもあるという現実を体現する存在となり、「正しいことを言う人が勝つとは限らない」という永田町の構造を可視化したとも言えるでしょう。
2024年、ついに首相へ――第102代・103代総理の誕生
2024年9月の総裁選でついに勝利し、同年10月1日、第102代内閣総理大臣に就任した石破氏は、鳥取県出身として初の首相という歴史的節目を刻みました。
就任直後に衆議院を解散するという決断は慎重派のイメージとは対照的であり、短期決戦で信を問う姿勢は“勝負師”の一面を印象づけました。
その後の特別国会で総辞職し、第2次内閣が発足、第103代としての在任は約1年に及びましたが、この一年は石破カラーが最も凝縮された期間でした。
「石破ショック」とアジア外交――1年政権の光と影
経済面では金融所得課税の強化方針が市場に警戒感を与え、株価が急変動する場面が報じられ、いわゆる“石破ショック”と呼ばれる現象が起きましたが、その後は発言を修正し市場安定を優先する柔軟さも見せました。
外交では東南アジア歴訪を重ね、アジア版NATO構想を提唱するなど安全保障協力を前面に押し出し、日本の役割拡大を模索しました。
日米関係では関税問題を含む交渉で一定の区切りをつけたと評価される一方、国内では物価上昇への不満が積み重なり、支持率は安定とは言えない状況が続きました。
退陣の決断――潔さか、戦略か、それとも必然か
2025年の参院選と東京都議選で自民党が大敗し、衆参ともに少数与党へ転落すると、党内から退陣要求が噴出し、9月7日に石破首相は辞意を表明しました。
「選挙結果の責任は総裁である私にある」と語った姿は潔いと評価される一方、政権運営の難しさを象徴する幕引きでもありました。
在任期間は約1年という短さでしたが、その間に提示された安全保障構想や地方重視の姿勢は、今後の保守政治に影響を残す可能性があります。
参院選敗北の数字が示した現実
比例得票の減少や都市部での苦戦は、物価高対策への評価不足と若年層支持の弱さを示し、世論と組織票のズレが浮き彫りになりました。
少数与党という構造的ハンデ
衆参で過半数を欠く状況では法案成立に野党協力が不可欠となり、政策実現のスピードは大きく制約され、理想を掲げるほど現実との摩擦が増しました。
それでも残る“石破ブランド”
地方重視、安全保障通、説明責任を果たす姿勢というブランドは一定の支持を保ち、再登板論が消えていない点もまた、石破政治の余韻と言えるでしょう。
エピローグ:退陣後の石破茂
退陣後も後継選出まで暫定的に職務を続け、「誠心誠意、全力を尽くした」と振り返った石破氏の評価は、支持者と批判者で大きく分かれています。
ただ一つ確かなのは、鳥取で育った一人の少年が、銀行員を経て首相に上り詰め、そして自ら幕を引いたという事実であり、その物語は日本政治の縮図として、これからも語られ続けるということでしょう。

